頑張れ

突然だが生きている中で辛いと感じた事はあるだろうか?

ここで無いと答える人は殆ど居ないと思う。どれだけ恵まれ幸せな家庭に生まれたとしても、友達と喧嘩すれば辛いし、異性に告白して振られると辛いし、iPhoneの画面が割れようものならこの世の終わりのように感じるかもしれない。このように辛いという感情は生きている中の様々な場面で起こり得る。些細な事から大きな事まで様々な辛さを乗り越え今僕らは生きている。しかし、本当に辛い場面に直面した時人は考えるのである。「何故こんな辛い思いをしてまで生きないといけないのか。」と。会社が倒産したり、多額の借金の保証人になったり、イジメを受けて電子辞書を壊されたり、事象はそれぞれ異なるにしても、そういった本当に辛い場面に立った時人は「死にたい」と思うのである。そこからエスカレートすると、「自分が死んだ所で誰も悲しまない」なんて言って自殺を本当に試みようとする人もいるかもしれない。

そんな時に「もう頑張らなくていい」という言葉を浴びせられた時に、心持ちが軽くなるように感じる人がいるのはおかしい話では無いと思う。

 

しかし、僕は敢えてこの言葉を言う。

 

頑張れ。

 

生きる意味について考えた事はあるだろうか?

恐らく殆どの人が一度は考えた事はあるであろう答えを出すのが難しい哲学的テーマの1つである。よく「どうせ死ぬんだから頑張っても意味ない」とか「人が1人死んだ所で世界は回り続けるし、生きる事に意味なんて無い」なんて事を言われる。確かにそれは事実である。

だが、それは本当に正しいだろうか?

単純な話、生きる意味を考えて「生きる事に意味なんてない」と結論付けて前に進むのか?どうせ死ぬんだから、第一志望に行けなくてもいっかと受験勉強をやめるのか?どうせ死ぬんだし、最低限の暮らしさえ出来ればいいからずっとフリーターで良いやと思うのか?そんな人は中々居ないだろう。

人は生きる中で具体的なものから抽象的なものを含め夢や目標という物を持つ。サッカー選手になりたいとか、医者になりたいとか、単純にお金持ちになりたいとか、その辺のニートだって非現実的な野望染みた目標みたいなものを持っているものである。これらを夢や目標の部分集合と考えた時、夢や目標の全体集合は「幸せになりたい」じゃないかと思う。どんな目的であっても、どんな下心があろうとも、本質の部分には「幸せになりたい」という考えがあるのではないかと思う。幸せというのは簡単にはやって来ない。朝満員電車の椅子に座るという些細な幸せを掴む為に、早めに家を出るという努力を要する。幸せな家庭を築く為に、最良の相手を見つけ最良の相手に最良の相手と思われる努力を要する。勿論、外を歩いていたら逆ナンされて生中出しさせて貰えたという思いがけない幸せもあるだろうが、多くの幸せというのは自分で掴みに行くものである。

「頑張らなくていい」それは現状からの逃げでしかない。頑張るから人は幸せになれるし、頑張るから人は前に進むんだ。「何故生きるのか?」と聞かれて「自分が幸せになる為」ではダメだろうか?人はどうせ死ぬ。確かにそうだ。だが、それを認識したら何だって言うんだ。100年とも満たない長いようで短い命を精一杯生きて振り返った時「生きてて良かった」と思える生き方をすればいいじゃないか。例え、歴史に名を刻めなくとも、他人に比べて自分の死を悲しむ人が少なかったとしても、自分自身が最後に満足出来る人生を歩む事が1番大切だ。その為には「頑張らなくていい」という言葉に惑わされず、幸せを掴む為に頑張り続けて欲しい。辛い、死にたい、もう頑張りたくない、そんな風に思う場面は必ずやってくる。その時「逃げ」というのは選択肢としてアリだと思う。しかし、「頑張らない」という「逃げ」の選択肢は選ばないで欲しい。意味は全く異なるが、ソクラテスの言葉を借りれば善く生きて欲しい。人生なんて大きな自己満足だ。人の役に立ちたいというのも見方を変えれば自己満足だ。その自己満足の為に、僕はもう一度読者に向けこの言葉を言う。

 

頑張れ。